しまった、間に合わなかった!

 

このウェブページをご覧になる方には、二種類あると思います。つまり、携挙前に本ページを読む方々と、携挙後に読む方々に別れるということですが、ここでは特に、教会の携挙後に読む方々に焦点を絞りたいと思います。患難前の携挙が起こる前に本文を読んでくださる方にお願いがあります。携挙に間に合わなかった場合どのような悪い結果が生じるか考え、もしまだ自分の人生をイエスに捧げていないのであれば、今からそうすることを真剣に考えてみてください。

何が起こったのか?

このところ、何故多くの人々が跡形も無く急に消え去ったのかについて、さまざまな見解を述べたり説明したりする人達で、激戦が繰り広げられているものと思います。

マスコミでは、この失踪の理由に事欠かないでしょう。警察当局が公衆に何と言うのか、想像するのも馬鹿馬鹿しいというものです。これは超自然的事象であると、私にはハッキリ言い切れます。多くの人々が失踪したのは、霊的に準備のできていた信者全員を、主イエス・キリストがこの世から連れ去ったからです。キリスト教徒が天に携え挙げられることを、教会の携挙と呼んでいます。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。

(テサロニケ人への第一の手紙 4: 16-18

ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたち全ては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。

(コリント人への第一の手紙 15:51-53

主は何故私を連れて行ってくださらなかったのか?

携挙後に本文を読まれているとしたら、後に取り残されてしまったということを理解しましょう。今は、神に拒まれたと感じているかもしれません。「神は何故私を連れて行ってくださらなかったのか?」 または 「理解できない。善良に生きてきたのに」 と思っているかもしれません。でも問題は、神が拒まれたことではありません。それとは逆で、皆さん自身が神を拒んだのです。イエスに従わず自分の命を捧げなかったので、皆さんを置き去りにするしか、神には術がなかったのです。

わたしにむかって 「主よ、主よ』 と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

(マタイによる福音書 7:21

天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。

(マタイによる福音書 12:50

私も希望を抱いてよいのか?

いつ本文を読まれるかにもよりますが、皆さんのなかには「携挙に間に合わなかったから、私たちは永遠に取り残されたのだ」 と誰かに言われた方がいるかもしれません。でもその推測は、まったくの間違いなのです。永遠に置き去られてしまうのは、右手あるいは額に獣の刻印を押された場合のみです。この場合を除けば、皆さん自身の救の神としてイエス・キリストを信じることで、肺に息がある限り、救のチャンスはあるのです。

・・・・わたしに来る者を決して拒みはしない。

(ヨハネによる福音書 6:37

全て重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

(マタイによる福音書 11:28

しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

(ヨハネによる福音書 1:12

ヨハネの黙示録によれば、患難の最中に大勢の人々が救われます。患難を信じる人の数が、携挙されただけの聖徒の数をいずれは超えるであろうと予測する学者もいます。

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った。

(ヨハネの黙示録 7:9

すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである・・・」

(ヨハネの黙示録 7:14

 

何故、キリストが私の救の神である必要があるのか?

天の門を通る資格を得るには、罪いっさいを取り除いてもらわなければなりません。罪というシミを完全に除去できる強力洗剤は、イエス・キリストの血のみです。

天は、コンピュータ会社がマイクロチップを製造する 「無菌室」 のようなもので、罪は、こういった無菌室に侵入しようとする塵や汚れのようなものだと考えてもよいでしょう。

マイクロチップの製造工程には全く汚れのない「無菌室」が必要で、浮遊する塵や埃の粒子がゼロに近い状態でないと、精巧なマイクロチップに破損が生じてしまいます。

人間の体は、普通さまざまな塵や埃の粒子で汚染されているので、作業員がこういった 「無菌室」 に入るときは、特別なスーツを着て粒子が侵入するのを防がなければなりません。

天が罪の粒子で汚染されるのを防ぐため、神の汚れなき住まいに入りたいと願う者は、イエスの血で覆われていなければならないという条件を、神は早くから定めていらっしゃいました。

罪の浄化過程は、非常に簡単です。神の子であるイエス・キリストに浄化を求めるだけでよいのです。まず、自分の罪深さを認めてください。次に、自分が犯した罪を許してくださいとイエスにお願いします。そして最後に、イエス・キリストに自分の意志を任せ、イエスを自分の人生における主とするのです。

十字架上の死をもって、イエスは、私たち一人一人にある永劫の罰を完全に許してくださったのです。このお許しを受ける人があまりいないのは、救の神など必要でないと思っているか、もしくは自分なりの救を求めている人が多いからです。

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を捨てる者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」
(マタイによる福音書 16:24-26

・・・自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
(ローマ人への手紙 10:9-10

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書 3:16

 

人生の方向転換

人生における主はイエスであると決めたら、次には人生の方向転換を行わなければなりません。私がまだ少年の頃のことです。休暇中に、両親と共にミネソタ州内のある街に向かっていました。ある所で道を曲がりましたが、家族の中には間違っているのではないかという者もいました。進行方向が間違っていると気がついたのは、小1 時間も経ってからです。どう行けばよいか、道のりについて皆の意見が飛び交った後、やっと正しい進行方向がみつかり、元々の目的地に向かうことができました。

進行方向が間違っていると気がついたら、方向転換をして正しい方向に進み始める、これ以外に適切な選択はありません。

一言二言何かつぶやき、そのまま無頓着に進み続けるわけにはいきません。イエス・キリストに全てを捧げ、主のことばを読み主の聖なる一生にならって生きなければなりません。

狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は狭い。そして、それを見いだす者が少ない。
(マタイによる福音書 7:13-14

 

大いなる惑いの到来

携挙直後の日曜日、世界中の教会という教会には人が溢れるであろうと思います。後に残された人々は、信仰を取り戻さなければならないと気がつくからです。

残念なことに、この信仰復興は長続きしません。「テサロニケ人への手紙」 の中で、多くの人の心はいまだに神聖を汚す生き方を好むので、神ご自身が送り出した偽りに従うようになるであろうと、使徒パウロが予言しています。イエスは、にせ預言者たちが現れ、「大いなるしるしと奇跡」 を行い、人々を惑わし悪魔の虚言を信じさせようとするであろう、と予言しました。

中道は有り得ません。キリストに命の全てを捧げなかった人々は、悪霊の惑わしにより完全に騙される結果となります。

また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛をうけいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた全ての人を、さばくのである。
(テサロニケ人への第二の手紙 2:10-12

にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
(マタイによる福音書 24:24

今から数年の間に、聖書中で反キリストと呼ばれている一人の世界的な指導者が現れます。最初は歴史上もっとも慈悲深い指導者のように振舞います。ところが、患難が終わる頃までには、ヒットラーやスターリンなどを遥かに凌ぐ極悪人と化します。反キリストの偽りやにせ預言者たちはくまなく世に広がるため、マスコミで見聞きするものは全て偽りの教義であると仮定する必要があります。真理の源は、聖書のみでなければなりません。

 

キリスト教の指導者を信ずべからず

今後、ラジオやテレビで、キリスト教の指導者からのメッセージを見聞きする機会があるでしょうが、こうしたメッセージは携挙前に録音・録画されたものではありません。皆さんが耳にする放送は、生放送もしくは携挙後に録音・録画されたものです。これは、皆さんと同じくこの世に取り残されたキリスト教指導者からのメッセージです。

皆さんお気に入りのキリスト教関係有名人もまだこの世にいることで、安心する人は数多いことでしょう。こういった指導者は、もしかすると恥ずかしく思う気持ちから、携挙が起ったことに対し必死に反証を試みるでしょう。「皆どこに行ってしまったのか、また何故かもわからない。でも、あれがいわゆる教会の携挙でなかったことだけは確かである」 などと言うかもしれません。

患難前に起る携挙の権威として知られていた人たちが、今度はこれに矛盾する理論をかざすとなると、聞く方は混乱してしまいます。どれほど尊敬されているように見えても、こういった人たちの言うことに耳を貸さないでください。

宗教および政治的指導者の多くは、携挙に関し論理的な説明を試み、これを皆さんに信じさせようとするでしょう。それは虚言にすぎず、神のことばに反するものばかりです。皆さん同様この世に取り残された人たちのお説教を聞く筋合いはありません。

 

最後まで耐え忍ぶ者

ここで、皆さんにとっては耳の痛いお知らせがあります。イエス・キリストへの献身を継続したければ、殆どの人が、殉教を選択せざるを得なくなります。中道というものはないのです。この患難のときに、反キリストとイエス・キリストという二人の主のうち、どちらかを選ばなければなりません。

イエスに従おうと決心する人々の数は、それほど多くないと思います。世界人口の大半は、催眠術にかかったように反キリストのことばに囚われてしまうのです。真の信者はこれを賛美しようとしないので、反キリストは、自分に従わないキリスト教徒に死を要求します。

そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、全ての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。耳のある者は、聞くがよい。とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。
(ヨハネの黙示録 13:7-10

秘密裏にイエス・キリストに従うのは、最初は簡単に思えるかもしれません。でも残念なことに、反キリストの要求により、間もなく全ての人が右手もしくは額に刻印を受けなければならなくなります。このマイクロチップのインプラントがあれば、商品やサービスの売買ができるのです。このインプラントがなければ、すぐに分かります。

この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。
(ヨハネの黙示録 13:17

このインプラント(獣の刻印)を受ける者は皆永遠に取り残されると聖書にあるので、皆さんのインプラントが埋め込む準備ができていると政府当局から通知があっても、この受領を必ず断るようにしてください。

その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
(ヨハネの黙示録 14:11

来る迫害において、皆さんは、キリスト教徒がこれまでに受けたこともないような辛い試練に遭うと思います。いつまで耐えればよいのでしょうか。反キリストが自分は神であると宣言した日から、キリストがこの世に戻られるまでの期間は、1,260日しかありません。

時が経ち、患難による苦しみが大きくなるにつれ、キリストに会いたいという願いは増すに違いありません。聖書に関して私が理解している範囲から申しますと、患難の最中にある聖徒のほとんどが、患難の結末が訪れるまで生きないと考えられます。人生を犠牲にせよと迫られているのだとしても、神の栄光における永遠の喜びと比べたら、つかの間の苦しみなど何ともないのです。

またあなたがたは、わたしの名のゆえに全ての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
(マタイによる福音書 10:22